2015年8月12日水曜日

育児

トルコで義父には愛を、義母からは家事を学んで来た。
誰もが特徴や得意を持ってるけど、そこから学ぶことで人間関係で自分が育つ。
義父も義母も何でも隠さず言ってくれる。
私も思った事そのままいう。
誰と付き合うか?というよりも、思ってる事を話せる関係かどうか?学び合える関係かどうかって大事だなって痛感した。

実は、私にとって主婦は夢だった。
仕事もバリバリやって主婦もって思ってたけど、私は仕事しかしてなかった事に気付いた。家事や家族は二の次にしてた。
家の事は一生懸命してた。なるべく手作りをしてた。
でも、ちゃんと子供の心を育てていたか?と言われると、してきてなかった。
仕事では、やってるのに、家だと休憩。みたいな。

ずっと、『根源のメジャー化』がしたくて頑張って来た。
でも外に向かって。
家の中は休憩してた。
オイオイ。
自分の夢とか信念に休憩があっていいのか?
そんな甘ったるい意識だったとは全く気付かなかった。
いつも夫が私の状態を教えてくれる。
近い人が自分を教えてくれる。
そして、その人は解決方法をも一緒にもってる。
だから、素直に心開いて聞けばいいだけ。

いまは、子供達と向き合う日々。
神様が、私に託したこの子供達の心をちゃんと育てよう。
身体は神様が育ててる。
心は親の役目だ。
子供の芽をダメ(駄芽 )にしちゃだめだ。
ちゃんとゼロの目で見る。
親の目じゃなくて、人間としての目。
何もわからない子供達に、愛をもって仕合せに活きる事を教える。
育ってはいけないエゴ(得誤)は、互いに痛くても摘む。
褒めて育てるっていうけれど、褒めて育つのはエゴじゃない?
褒めなくても、ちゃんと自分の目標を持ってそれが出来たら感動する。
自己完結でいいはずだ。
なんで、その上に褒められる必要があるんだろう?
褒めてばかりいたら、誰かにいつも認められないと不満が溜まるエゴの人間になってしまう。本来、生きているだけで、感謝があるのが仕合せなはず。
そういう仕合せを伝えること、感謝の心がもてるようにすることが本来の教育だと私は思う。

子供達は6週間の夏休み。
ヨガを教えたり(授業でも習ってるらしいが)、瞑想させたり、家事を一緒にやったり、基本の基本をしっかり教えてる。
自分も他人も大事にする優しい心が育って行くように、時に心を鬼にしてエゴを摘む。

前は理想の家庭を求めて来たけれど、(まっ見事に壊れたけど)いま努力しているこの家族が本物の家族だと感じるし、泣いたり叱ったり、人間らしいこの生活を求めていたんだって実感している。
噓の一ミリも無い人間関係は、家族で創る。
そうすれば、子供達も偽り無い、愛(合)ある人生を送れる。

どんな人生でもいい。
真実だけは1つ。
それに沿って活き、1つの自分しか持たない子供達に育って欲しい。

そのためには、まず親が一ミリの噓の無いゼロの状態にならなければ、話にならない。
これからも自分の姿を教えてくれる人達を、なによりも大切にしてゼロのバランスをとっていこうと思う。