2015年8月29日土曜日

先日、ドイツにある日本の新聞を読んだときの記事。

『日本語の出身国授業が存続の危機』
これはハノーファーで20年前から、生涯支障無く母国へ戻れるようにという配慮と、母国語という土台があってこそドイツ語がきちんと習得できるという考えからドイツ側から無償で実施されてきた日本語の授業が、今年で打ち切りになった 。

廃止は困ると保育者有志で署名を集めて陳情書を提出した。
それは地元紙にも取り上げられられた。
この制度に関しに日本政府からの補助も無く、ドイツ側が教員を雇用して、教室を提供し、授業料も無料。
ドイツは国が教育について責任を負うというスタンスなので、通常でも大学まで授業料はほとんどかからない。
その陳情書に対して、知事は個人的に関与できないが、教育相に回付したという返事がきて感激したそうです。
日本語の授業が何とか存続されるよう、希望を持っています。
以上のような記事だった。

私は、これを読んで同じ日本人として非常に恥を感じた。
これを読んで、恥を感じない人は、感謝の心が麻痺していると私は思う。

恥ずかしい理由は、
1、元々、これは日本側がするべきことなのに、母国の政府が全く返事すらない現状。
2、ドイツの人を育てるという愛に対し当たり前という態度。
3、ドイツ側に感謝するどころか、存続が当たり前として、陳情書を出した事。
4、以上のような内容が、新聞に載ったと自慢していること。
5、責任=答えるという単語の意味を持つドイツが、返事するのは当然だし人間関係の礼儀。なのに、ドイツ政府からの返事が来て感激していること。
6、ドイツへの少しでも感謝があれば、このような言動は出来ない事。
7、折角、こういう新聞に載せるんだから、これからは保護者で資金を集めて運営するので働きたい先生を募集します。など、そういう利用方法や工夫が出来ない事。

日本は、過保護国。
あって当たり前。
されて当たり前。
食べれて当たり前。
親が居て当たり前。
家族がいて当たり前。
結婚して当たり前。
子供がいて当たり前。
仕事があって当たり前。
家があって当たり前。
ものがあって当たり前。
幸せで当たり前。
健康で当たり前。

こんなプラスの状況を、当たり前だと思っていると、無感動にしか生きれない。
ゼロのセラピーがもうすぐ完成する。
ゼロ地点に立った時、人間は真に感動することができる。
それは、何かをした感動ではない。
そこにある全てへの感謝の心。

感謝の心が無い事を 恥ずかしいと思う。
家族やパートナーや仲間に礼儀を持てない時も恥ずかしい。

そして何より恥ずかしいのは、恥じるべき事に恥じれない事だと私は思う。