2015年9月25日金曜日

人生って。

いやー、人生って突然の展開を見せるもので。
色々あって、急に引っ越さなければいけなくなって。

色んなもの、人間って持ちすぎるとダメね。
ぬくぬくして変化しなくなる。
けど、崖っぷちだと力だす。

ただいま、崖っぷちスレスレを歩いてて、その恐怖とスリルを味わってる。
元々、ジェットコースターとか、ホラーとか怖いの好きで、リアルな現実という恐怖に震えながらも、その中で、自力を出せてる自分に自信が持てたり。

何があるか解らないのが、人生だし、そうでなくっちゃ!って手を叩いてたり。
とにかく、いままでのヌクヌクもそれはそれで幸せだったけど、いまとっても大変すぎて活きてる!!って実感するMな私。

ゼロのセラピーを創っていて心から思うのが、『元々この命さえも無かった。』という原点がしっかり理解できると、いまみたいなマイナス現象も変に慌てずに済むんだって実感中。どんなプラスもマイナスもありがたくなる。
それ以上の仕合せがどこにあるのだろうか。。と、セラピー作成の為に夜中の2時に起きて思う私でした。

2015年9月21日月曜日

まあいいや。滅亡計画。

まあいいや。
それが、自分の中のアイの無さに繋がってたこと痛感。
メンドクサイから、まあいいや。
言わなくても、まあいいや。

でも、心の奥でモヤっとする。
どういうこと?って1ミリでも思ったら、
それは、自分の行動が間違ってる証拠。

そんな時は、何が間違ってるか?ちゃんと気付く努力をする。
自分で気付けなくて、人に言われたら、素直に間違いを直視する。

1ミリだから、まあいいや。これが、雪だるま式に広がる。
人のせいにして、周りの悪口言うのは、ネズミ子式に広がる。

まあいいや。

思いと行動を合せ ようともしない言葉。
自分を諦める言葉。
だらしない自分。

やっぱ、そういう人生生きたくない。

間違いを受け止めて、進むだけ。

私の辞書から、まあいいやを消す。

2015年9月15日火曜日

社交辞令

さっき、トルコの義祖母に『この前、水曜日来るって言ってたから待ってたのに、何で来ないのー!』って叱られて、あ、、、、それいつかの水曜日にいつか行こうと思っていったのだ(汗)。そういや、こっちは社交辞令なんて無かった。。(汗)
で、期待して待っててくれた彼女の心を察し、深く反省すると共に二度と社交辞令は言わないと自分に誓った。

かるーく考えて言っちゃって、結果が噓になるなら、それは私の本望じゃない。
私は噓が大嫌い。そして噓以上に、黙っていられるのが嫌い。
だから、こっちの人は思った事をちゃんと言ってくれる安心感があって好き。
なのに、私がその嫌な人間になってるではないか!

嘘つきオオカミみたいに、こんなこと繰り返してたら、
自分の言葉の重みが無くなる。ってことは、存在が軽くなる。
いや、自分の存在を軽くみてるから、簡単に相手に合せたことを言うんだろう。

でも、私は日本人。
軽くイエス、うんうん、と言ってしまう癖が未だに抜けない。
癖を直すのには根気がいる。
とにかく、返事をするという責任の重さを受け止めよう。
ドイツ語でも、責任は返事という単語を使う。
私も、返事をしない、話をしないというのは責任放棄以上の何者でもないとおもう。
だから、とりあえずウンウンって言わないで、
ちゃんと考えて、自分の心にフィットした言葉を発する。

丁度、昨日夫とも、私が言えなくて態度に嫌だというのが出て喧嘩になった。
これも、社交辞令の一種。
本当の事が口で言えなくても、態度に、オーラにでてしまうもんだ。
そのほうが、質悪い。
いま、私の気持ちはこうです。と話をするって、昨日今日の反省で決意した。

だって、嘘つきになりたくないもん。
私の自論だけど、噓は人を仕合せにしない。
私は常に正直な人間関係のみを創りたい。
逆に私は、腹割って話せるなら、許せない相手でも付き合える。

ちなみに、噓が一ミリも吐けない夫は、昔惚れられた女の子に『私可愛い?』って聞かれて、『ごめん、オレ噓吐けない。』って言って泣かせた事がある。
もし、社交辞令でも彼がうんとか言ったら、彼女は自分の人生の時間を、望みのない相手に使うことになった。
私はそれよりも、ストレートに思いを言った彼を愛があると感じる。

情が、偽りなら
愛って、正直さだとおもう。

私は、今日を持って社交辞令を辞めると心に誓った。

2015年9月7日月曜日

愛かエゴか

愛なら、自分の事よりも相手の成長を願った行動が出来るだろう。
エゴなら、相手の事よりも、 自分の感情を大事にした行動をするだろう。

愛なら、自分の間違いを直視できる。
エゴなら、自分は正しいと思いこむ。

愛なら、相手の立場になれる。
エゴなら、自分の立場を主張する。

愛なら、本気になれる。
エゴなら、中途半端が増える。

愛なら、正直になれる。
エゴなら、適当な噓を つく。

愛なら、めんどくさい事を丁寧に出来る。
エゴなら、面倒な事から逃げる。

愛なら、夢を語る。
エゴなら、不満を口説く。

愛なら、逃げない。
エゴなら、無視する。

愛なら、人と向き合える。
エゴなら、人が怖くなる。

愛なら、厳しく。
エゴなら、甘く。

愛なら、どんなに苦しくても相手の為に手放せる。
エゴなら、苦しいから意地でも手放さない。

愛なら、それが愛かエゴかも迷わない。
エゴなら、悩む。

愛なら、自分を疑う。
エゴなら、相手を疑う。

愛なら、自他をみつめる。
エゴなら、自分をみつめるだけ。

自分の信念は愛かエゴか?
私は 、常に愛で活きる。



悩みの解決方法。

今日、アシュタンガヨガの体験コースに行って来た。
あまりのハードさに!!!!
さすがアシュタンガヨガ。。。続けるかは、まだ決まらないけど。
でも、ずっと行きたいと悩んでたのが無くなった。
しかも、そこでセラピストのドイツ人の友達もできた。

私は、悩むのが嫌い。
頭の中でグルグルするし、いつも目の上のタンコブみたいで
心がスッキリしないのが嫌い。
いつも、どんなときもすっきりしてたい。
自分が綺麗好きだって、最近気付いた。
そういえば、浄化修正も魂の整理だった。
都合の悪いのを消すとかじゃなくて、自分のしたこと整頓して
、いいも悪いも綺麗に並べる。
全ては、自分が見る為に。

で、この前のトルコでスーパ−主婦の義母とすごして、
主婦業のすべてを3週間で学んできた。
彼女の凄い所は、言えばきりがないけど、とにかく私は
家をどういう風に綺麗にすればいいか?を学び、家が
綺麗になった。実は綺麗好きだった私は、今の生き方が
自分にフィットしてる。
仕合せって、フィット感なんだよね。
心にも身体にも生き方にも、違和感(噓)ゼロで活きる。

グルグル悩むのって、私の望む生き方じゃないから心地悪い。
悩むのが好きな人は、心地いいんだとおもうし、それは
人それぞれだと思うから私は何も言う気ない。

ただ、自分が悩みを解決したいのなら、とにかく『動く』しかない。
動いていたら、悩む暇はない。暇がなければ悩まない。

毎日ドイツ語やってるけど、今のテキストにある単語が半分も解らない。
あと、今日のヨガでも友達と話してても半分解らない。
そこで、悩む事もできるだろう。
『なんで私は出来ないんだろう?』『どうすれば上手くなるんだろう』『私は話せないんじゃないか』『みんなどうしてるんだろう』
そーんなことで悩む時間あったら、単語50個勉強できるって。
出来なくて当たり前。
下手で当たり前。
話せなくて当たり前。
みんな同じ道通ってる。

この真実の上に立って、自分はどうしたいか?考える。

今の私は、このレベルだけど、ぺらっぺらに話したい。

じゃ、いまやる。

悩みは現実の上に立って動く事で解消されるのだ。

2015年9月1日火曜日

人生の色を変える。

問題からなぜ目を背けるのか?
問題は見なければ無いのと同じ。
でも、問題こそ成長のヒントがあるんじゃないか?
私は、本当の意味で育児をしてこなかった。
一生懸命やってきた、食べるのも、幼稚園グッツも 手で作れるのは
基本的に手作り。子供と歌うたって、一緒に遊んで料理して。
仲良しで。
人が何で育児に悩むか、さーっぱり解らなかった。
でも、気付いたのがこれは全部愛じゃなくて、欲だった。
お母さんになったら、こうしたい。という私の欲。
そして、めんどくさい事があると、
親は無くとも子は育つ。
神様が育ててくれるだろう。的なありえない発想で対処。

神様は心臓や内臓や神経を動かしたり身体を大きくしてくれるけど、
人間は、心身を育てなければ行けない。それは、かみさまの役目ではない。

あーあ。
子供の前に自分。
自分の心が育つ為に真剣に考えてない。自分に厳しくない。
いまの自分を、ちゃんとジャッジして、育てないとなのに。
人の問題考えたり、他の事考て、肝心要の自分の問題を無視。

これじゃあ、心を育てる育児なんて出来るわけない。
ふう。
いままで、間違ってきたことを、まずは認めよう。ってか全部だし。
だって心持ちの根っこが間違えば行動は全て間違う。

痛い痛い。

プライドが腹を立てる。
でも、どんなに怒っても、目の前に転がってる問題は無くならない。
こんな時は、盲目の術で無い事にするか、

問題をみるぞ!という気相と自分の間違いに気付き直すか。

それだけで、人生の色が変わるだろう。

常識を無くそう!

子供達は、6週間の夏休みを終え、新年度が始まった。
だいたい、日本を反対にするとドイツになる。
今ごろが新学期というのも慣れず、丸理が成績表を持って来たから
???と色々質問したら、なるほど、丸理は2年生に進級したよう。
日本だったら新学期に、前学期の成績表?だよね。
彼女の学校は、ドイツ初の縦割り小学校!ということで、前年と同じ先生。
もちろん、夏休みの宿題はゼロ。
海渡は、数学は6年生になれたけど、他が5年生レベルということで、もう一年留年
で、今年も5年生。たぶん、日本だと来年中学生になるはず。
基礎はじっくりやったほうがいいと思うし、本人も納得してる。
どれも日本じゃありえない。

しかも、この前私と海愛で申し込みに行った幼稚園がオッケーだしてくれたー!!
普通1年2年待ちなのに、オラ頑張った!
行った時、申し込みが遅い、とか、他にも待機児童がいるから難しいと言われながら、4回も『どうしてもドイツ語の学校に行きたいから。』と念を押した所、その申し込み用紙に書き込んでくれた。
やっぱり、人間って意思疎通しないとダメだ。ちゃんと自己主張するべきだって思った。
ドイツは押しが強い人が強い。
日本だと、逆に迷惑な人ということでオッケーださないかもね。

ということ10月から12月まで、たぶん血を吐きそうになりながら学校に行くことが決定!
外国語を学ぶのが楽なわけないさー。
血を吐くのも慣れて来たし(笑)。
ヨガやってると、痛みに強くなる。
人生痛いもんさ。
痛みを楽しめたら本物♡

夫の学校も始まり、みーんな学生家族としてスタート。
私と同い年の、日本人妻とドイツ人夫婦の友達も、5人目の子供が産まれた。去年まで夫婦学生。

そうそう、海渡が今日から来た新入生は、小学生なのに夏休み中、母国で車の運転免許証とったんだって。

日本の常識って一体何だ?
そんなに重んじることなのか?
ドイツの新学期、常識を捨てて、感じる心を一番にしようと思う。