2015年9月15日火曜日

社交辞令

さっき、トルコの義祖母に『この前、水曜日来るって言ってたから待ってたのに、何で来ないのー!』って叱られて、あ、、、、それいつかの水曜日にいつか行こうと思っていったのだ(汗)。そういや、こっちは社交辞令なんて無かった。。(汗)
で、期待して待っててくれた彼女の心を察し、深く反省すると共に二度と社交辞令は言わないと自分に誓った。

かるーく考えて言っちゃって、結果が噓になるなら、それは私の本望じゃない。
私は噓が大嫌い。そして噓以上に、黙っていられるのが嫌い。
だから、こっちの人は思った事をちゃんと言ってくれる安心感があって好き。
なのに、私がその嫌な人間になってるではないか!

嘘つきオオカミみたいに、こんなこと繰り返してたら、
自分の言葉の重みが無くなる。ってことは、存在が軽くなる。
いや、自分の存在を軽くみてるから、簡単に相手に合せたことを言うんだろう。

でも、私は日本人。
軽くイエス、うんうん、と言ってしまう癖が未だに抜けない。
癖を直すのには根気がいる。
とにかく、返事をするという責任の重さを受け止めよう。
ドイツ語でも、責任は返事という単語を使う。
私も、返事をしない、話をしないというのは責任放棄以上の何者でもないとおもう。
だから、とりあえずウンウンって言わないで、
ちゃんと考えて、自分の心にフィットした言葉を発する。

丁度、昨日夫とも、私が言えなくて態度に嫌だというのが出て喧嘩になった。
これも、社交辞令の一種。
本当の事が口で言えなくても、態度に、オーラにでてしまうもんだ。
そのほうが、質悪い。
いま、私の気持ちはこうです。と話をするって、昨日今日の反省で決意した。

だって、嘘つきになりたくないもん。
私の自論だけど、噓は人を仕合せにしない。
私は常に正直な人間関係のみを創りたい。
逆に私は、腹割って話せるなら、許せない相手でも付き合える。

ちなみに、噓が一ミリも吐けない夫は、昔惚れられた女の子に『私可愛い?』って聞かれて、『ごめん、オレ噓吐けない。』って言って泣かせた事がある。
もし、社交辞令でも彼がうんとか言ったら、彼女は自分の人生の時間を、望みのない相手に使うことになった。
私はそれよりも、ストレートに思いを言った彼を愛があると感じる。

情が、偽りなら
愛って、正直さだとおもう。

私は、今日を持って社交辞令を辞めると心に誓った。